人類の敵♨を仲間と勘違いして助けたりすれば種族保存はできません。
だから常に善は敵♨ではなく、仲間と思われるものに対して行わなければなりません。
善は常に仲間の問題解決の為にあるのです。
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善なる行為の本質はなかなか見つかりませんでした。
そこで私は善ではなく、悪とは何か?と考えました。
悪とは人殺し、盗み、詐欺などなどである。ある時、これらを考えていて、ふと「悪い奴らは皆、他人の事は一切考えず、自分の事ばかりを優先しているのでは?」と気が付いたのです。
それでは善は悪の反対であるから善の定義は「自分(私)の事よりもみんな(公)の事を優先することである」ということになります。
そしてその考えを自分の考えた多くの善なる行為に当てはめてみたのです。その結果、すべてにそれが当てはまり内包していたのです。
ゆえに善なる行為の本質とは「私より公の為を優先すること」であるとなったのです。
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絶対善は唯一無二の善であり、善の対である悪♨が絶えて、悪♨が一切ないのです。
また善は道徳的正しさですから「その社会的問題において」絶対的に正しいと言うことです。
「本当の絶対の意味も良く分からずに、自分の思い込みの絶対こそが絶対に正しいのだ」と勘違いされて「絶対善など絶対ない!」と言われても困るのです。
私たちが理解できる絶対とは「~において」の絶対なのです。実際に多くの絶対はあるのです。絶対の本質、イデアは分からなくても、その絶対の要素は数多くあるのです。絶対のイデアだけが絶対ではないのです。矛盾が一切なく普遍的であればすべて絶対と言えるのです。
私は「(道徳的に)正しい事とは一体何だろう?」と考えていた時に、ふと「大切なものを守る事は正しい」と思い付きました。
そうなのです、当たり前のようですが、私たちは誰でも「大切なもの、価値あるものを守る事は正しい」と「感じる」のです。
母親が子供を慈しみ大切に守っているような姿に「善いな~」という感情があり、それを私たちは「道徳的に正しい、善い」と感じているのでしょう。
大切なものを守る事は正しい。そうであれば当然に、最も大切なものを守る事は最も正しい、となります。
私たちにとって最も、何よりも大切なものは命でしょう。しかし個人の命よりも、やはり仲間の群れ全体の命の方がより大切でしょう。それでは最も、何よりも大切な仲間の群れの命を守る事は最も、何よりも正しい、となります。
また群れ仲間の命を守り、存続させることは、それはいわゆる種族(仲間の群れ)保存の事である。
これらから「最も、何よりも正しい事は種族(仲間の群れ)保存である」ということが道理的、論理的に導かれました。
種族(仲間の群れ)保存は過去も未来も、いつの時代でも、あらゆる民族・国家においても共通することですから、これを絶対的に正しい事、つまり絶対善としました。
種族(仲間の群れ)を保存をすることは、あらゆる生物にとって最も大切なことであり、今後も、未来永劫変わることのない絶対的な私たちの目的なのです。ゆえに種族保存は絶対善と言えるのです。
群れでしか生きられない私たちにとって仲間の群れの保存こそが自己保存よりも大切なのです。ですから仲間の群れが生き残ることこそ私たちの最も大切な事であり、最高の目的なのです。これ以上に大切なものはないのです。種族(仲間の群れ)保存こそ「絶対に善いもの、つまり絶対善」なのです。
この結論は動物たちの生態を見ても、私たち人類の歴史を見ても自明のことであり、皆さんも経験的または潜在意識的にも何となく分かっていることではないでしょうか。ですから皆さんは「善とはみんなの為?そんなことは子供でも知っているよ」と言う人もいます。しかし「何となく分かっている」のと「本当に分かっている」のとでは雲泥の差があるのです。
私の成果としては演繹法的に絶対善を導いたことでしょう。しかし演繹法でもイデアを導けると証明できたことは素晴らしいことだと思います。
これで善、正しいと言う感情をやっとみんなに分かるように「言葉にする」ことが出来たのです。善、正しいと言う感情は「種族保存に合致すること」を「善いな~」と感じて脳内に快のホルモンが本能的に出るようになっているのです。これが善の正体なのです。
しかし現在においては食料も十分にあり、国民、民族が滅びるということは、まず考えられませんので、基本的に種族保存に絶対的に必要なものである「社会の安寧秩序が守られていること」も絶対善とします。
そしてそれは「社会に秩序があり、みんなが安心して平穏に、そして幸せに暮らせている状態」のことです。
しかし、これでは絶対善の説明には少し長すぎますので、私は「みんなの安心・幸せの為」または「みんなの為」と簡易に表現しています。このことをよく了解しておいてください。「みんなの為」とは「種族保存であり、みんなの安心・幸せの為」を示しているのだと。
時代は種族保存からみんなの幸福追求、つまり人権に移っていますが本来、絶対的に正しい事は「種族(仲間の群れ)保存」であることを忘れてはなりません。
種族保存こそが最高に、何よりも「みんなの為」になるのです。
人権などではありません。私たちにとって、みんなの安心・幸せが守られ、その状態が存続している事こそが「絶対的に大切なもの」なのです。
その絶対的に大切なものを守る事を「絶対的に正しい」と言うのです。この種族(仲間の群れ)保存と言う最高の目的に適うことを私たちは「善、正しい」と思っている、または感じているのです。
それでは「絶対的に正しい事(最高の目的)」は本当に「種族保存、みんなの安心・幸せの為」なのかを検証をしてみましょう。
国や政治、国会などは何の為にあるのでしょうか? また軍隊や警察、消防署は何の為にあるのでしょうか? また文化、教育、学校、建物や車、信号機などは何の為にあるのでしょうか? それは私たちにとって最も価値のある物、大切な物の為にあるのです。
その最も価値あるものの為に私たちがこの社会で必要と是認する物すべては作られ、存在すると言っても過言ではないのです。
その最も価値があり 大切なもの、それは何かといえば、やはり「種族保存、社会の安寧秩序、みんなの安心・幸せを守る事」でしょう。
考えてみてください。
国や政治、自衛隊、教育や文化や建物や車などなど、全ての物はこの「みんなの安心・幸せの為」に作られ、存在するのです。それほど「みんなの安心・幸せ」とは私たちにとって価値のある大切なものなのです。これを守る事が絶対的に正しい事であり、私たちの最高の目的なのです。
善とはみんなの命を守り助けることなのです。
先人の言うところの善とは・・・・
・多くの人が是認するようなもの。社会的な規範に是とされる存在。
・人間のあらゆる営みが目指すところ、あるいは営みを律する義務の源泉。
・誰もが望むもの、誰もが求めるもの(アリストテレス)
・何を選択すべきか決定される元のもの(プラトン)
・努力の目標となるもの(T.ホッブズ)
これら先人たちの言う善に対して全て合致するものこそ「種族保存、みんなの安心・幸せの為」なのです。ありとあらゆるものが、この最高の目的である種族(仲間の群れ)保存の為に存在すると言っても過言ではないのです。やはりこのように考えれば絶対的に正しい事(目的)=「みんなの安心・幸せの為」「みんなの為」と言えるのです。
それではもう一つ「絶対的に正しい事」=「みんなの安心・幸せの為」なのかを検証してみましょう。
そもそも正しい、正しくない、善い、悪いは何故、必要になるのでしょうか。それはやはり何かを選択しなければならない問題が起きるからです。「さあ、どちらを選ぶのだ?」という選択すべき問題が起きるからです。
善とは「これが善い、これが正しい」と選択することなのです。何も選択するような問題がないならば善い、悪い、正しい、正しくないなどの言葉は必要ありません。そうでしょう?
つまり「善、正しい」は「選択すべき問題」と切っても切れない関係にあることが分かります。そして「これが正しい、これが善いだろう」と何かを決めなければならない問題は、やはり私たちにとっては少し困った問題なのです。そのような困った問題の最も良い答えを私たちは「これが最も善い、最も正しいだろう」と選択するのです。ですから問題とは正しい、正しくないと結論を出さなければならない困った社会的問題を指すのです。また問題ですから必然的に答えも付き物です。
これらを含めて考えてみれば、通常私たちは「善、正しいとは○○である」と言いますが、これを詳しく言い換えてみれば「ある選択すべき社会的問題において最も善い答えとは○○である」と言わなければならないのです。つまり善、正しいと言うときは常に「社会的問題に関するもの」ということなのです。
西洋の哲学者たちは「善とは真・善・美のような何か崇高なもの」と考えていたから善とは何かが分からなかったのでしょう。善と言うときには、それは常に何か選択すべき問題についての事なのだと言うことです。これが私のひとつの大きな気づきでした。
それでは選択すべき問題において「これが善い」と選択する理由、目的は何でしょうか?
それは勿論、それがみんなにとって価値があり、みんなの為になると思うから「それが善い」と選択するのです。つまり私たちが善、善い、正しいと言う意味は「みんなの為になること」なのです。みんなの為になることを指して「善、正しい」と私たちは言っているのです。
みんなに関する問題はみんなで議論して妥協して決めたことが正しい答えとなるのです。また「みんなの為」にならない答えなど、そもそも答えではありません。そうでしょう? 当たり前ですよね。一人のだけの利益になるなら、それは独裁です。みんなはそれを決して許さないことでしょう。ですから独裁国家では絶対善は成り立ちません。
また選択すべき 社会的問題はいろいろありますが、よくよく考えてみれば「あらゆる社会的問題の善い答えはすべてその問題に関係するみんなの為の答え」でなければなりません。
それではこれを略してみれば「あらゆる善いのすべてはみんなの為」となります。「あらゆる善いのすべて」ですから「絶対に善い」、つまり絶対善です。ですからもっと簡潔に言えば「絶対善はみんなの為」となります。「みんなの為」とは、言うならば「みんなが生き残る目的の為」と言うことです。みんなが生き残ることが私達にとって最も価値があり、絶対的に善いものであり、最高の目的なのです。
家族の問題ならば家族「みんなの為」になる答えでなければなりません。町の問題であれば町民「みんなの為」になる答えでなければなりませんし、国の問題であれば国民「みんなの為」になる答えでなければなりません。
このようにあらゆる社会的問題の正しい、善い答えはすべて「みんなの為」に合致している答えであることは共通しているのです。
そしてまた、家族「みんなの為」、国民「みんなの為」のように「公、みんな」の範囲はその問題によって変わると言うことが理解できるでしょう。
以上のように、あらゆる社会的問題の善い答えには「みんなの為」が絶対的に含まれ、内包しているのです。これからも絶対善は「みんなの為」と言えるのです。
そして何か問題が起きれば、みんなで話し合い、時には妥協して、これがみんなにとって一番善いであろうと思うものを選択し決める。それが全体的な利益である「みんなの為」に合致する答えでしょう。
本来、善は仲間の為にあるのです。「みんな」とは仲間であり、その問題に対して利害関係があり、問題を解決するために話し合い協力し時に妥協できる人でなければなりません。仲間なら最後には何とか妥協することが出来るのです。
そしてどうしてもまとまらない時には最後には多数決で決めるしかありません。それもみんなにとっては一つの正しい答えなのです。
そのみんなで決めた事を守らないと言うのであれば、それはもう仲間ではありませんから日本から出ていくか、刑務所に入れるしかないでしょう。
しかし特に悪さをしない人ならばとりあえず仲間でいられるのです。
ですから「みんな」の最大とは基本的にその国の安心・幸せの為に協力できる仲間の群れ、国民ということになります。
敵から軍隊で守っている国民が最大の「みんな、仲間」なのです。そして最小の仲間の群れは家族と言ってもいいでしょう。
世界は基本的に仲間ではありませんから、世界的な問題はなかなか妥協が出来ず、あまりうまくいかないのです。
世界的問題では各国は「公(世界のみんな)の為」と言うよりも自国の利益を主に主張します。それでは良い結論は絶対に出せません。決まったことだからと力ずくで妥協させようとすれば戦争となることでしょう。
ですから世界が仲間といえる条件とは世界各国から軍隊がなくなることでしょうが、それはまず不可能と言えるでしょう。
基本的に「みんな、仲間の群れ」の最大は各国の国民となります。
善とは基本的に仲間のみんなの為だけにあるのです。敵♨に善を行えば滅びてしまいます。
そして日本と世界や他国と共通する善などないのです。善とは群れ仲間の保存、安心・幸せの為にあるのです。
勿論、善の定義は仮に他国、世界を仲間として考えることはできますが、基本的には世界は仲間ではありませんので現実的には善は機能せず、良い結果は得られません。
善とは本来、仲間の問題解決の為に自然界で作られてきたのです。他の群れを侵略してもっと楽して暮らしたいと言うのは人間の理性、私欲によるもので自然界にはないのです。
つまり正しいとはその問題に関係している仲間たちにとっての正しさなのです。ですから他国やその問題に関係ない人たちを考えに含めてはなりません。
例えば家族の問題であれば家族みんなの問題であり、他人が「ああしろ、こうしろ」と口を挟んではならないのです。家族の問題は家族みんなで決める問題です。
そしてあくまで「絶対的に正しいこと」とは常に「その問題において」また「その問題に関係する人たちにおいて」絶対的であると言うことなのです。これは当たり前なことで何か困った問題が起きれば各々その問題、問題において絶対的に正しいであろう答えを出さなければならないのです。
家族の問題に対して種族(群れ仲間)保存と言う言葉を使うのは大げさすぎますが、その家族と言う仲間の群れの保存、家族の群れ仲間の命を守る事が最も大切であると言うことです。
問題には国の問題のような大きな問題から、家族の問題のような小さな問題までいろいろありますが、その問題、問題に関係している「仲間の群れの保存」、いわゆる種族(仲間の群れ)保存こそが最も大切なものと言う事なのです。
上記の検証における結論として言えば、絶対的に正しい事、絶対善は「種族保存、社会の安寧秩序が守られている事」なのです。
私たちは社会の安寧秩序の為、みんなの安心・幸せと言う目的の為に、この社会で必要とされるもの全てを作ってきたのです。
愛や善やその他の感情もすべてそうです。
法律や規範、思想、そして言葉なども、すべては種族(仲間の群れ)保存、社会の安寧秩序を守る為、みんなの安心・幸せの為に創られてきたのです。ですから私はそれらのことをすべて含めて「全ては種族保存、公(みんな)の為にある」と言っているのです。
このように「社会に秩序があり、みんなが安心して平穏に、そして幸せに暮らせる事」、これこそが私たちにとって最も大切なものなのです。私たちが最も善い、正しいと感じるのは「みんなが安心して幸せである事」なのです。
いつの時代でも、いかなる民族・国家でも「社会に秩序があり、みんなが安心して平穏に、そして幸せに暮らせる事」に何の「悪」があるでしょうか。一切の悪はありません。悪という対が絶しているのです。ゆえに矛盾が無く絶対善と言えるのです。
「みんなの安心・幸せの為」これを憲法では「公共の福祉」と言っています。
つまり絶対善である公共の福祉と言う目的に合致することは善であり、公共の福祉に反することは悪なのです。
権利、自由、平等などの人権さえも、公共の福祉に反しないならばという条件の下で尊重されるのです。
公共の福祉に反するならば、人権も悪となるのです。人権を侵すことのできない永久の権利、つまり絶対善などと考えていれば、やがて日本は滅びてしまうことでしょう。
つまり「種族保存、社会の安寧秩序、みんなの安心・幸せ、公共の福祉」、これこそが最も、何よりも大切なものなのです。
これ以上に価値あるものなどないのです。常にこれが絶対善、私たちの最高の目的でなければならないのです。
それに合致する事を私たちは「これが善い、善である、正しい答えであろう」と選択するのです。
今まで「絶対善など絶対ない!」と言われてきましたが、これで絶対善が分かったのです。あらゆる社会的問題において絶対善は「仲間の群れみんなの安心・幸せの為」さらに略して「みんなの為」なのです。種族(群れ仲間)保存、みんなの為と言う最高の目的のためには、一部の人たちの為ではなく、多くのみんなが生き残れるようなもの、つまり「みんなの為になるもの」を「これが最も善い」と選択しなければならないのです。
絶対善が分かったのですから「正しいは人それぞれである」などはもう過去のものなのです。これからはいかなる問題であろうと絶対善に合致している答えをみんなで論理的に考えれば、答えはきっと一つに収斂していくことでしょう。
私たちはあらゆる社会的な問題において、絶対善である「種族保存、みんなの為」と言う最高の目的に合致するような答えを見つけるために、みんなで協力し合って道理的、論理的に考えればいいだけなのです。そしてその為に最も正しい、優れた方法、行為が「絶対的に正しい”行為”」なのです
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また基本的に善なる行為とは「困っているものを守り助けること」を言うのです。
皆さん、善なる行為をいろいろ思い浮かべてください。その善なる行為はすべては困っているものを助けることなのです。困っているものを助ければ、その問題に関係しているみんながほっとして安心するのです。そのみんなの安心・幸せな状態が「みんなの為」なのです。
言うならば私の言う絶対善「私より公を優先すること」は悟りが開けない人たちの一種の悟りとも言えるものなのです。この考えで行動すれば間違うことは極力少なくなることでしょう。
善の正体とは世紀の大発見と言われたミラーニューロンではないでしょうか。ミラーニューロンとは鏡を見るように共感作用を起こす神経細胞です。
例を挙げれば皆さんは相手が笑えば自分も笑いたくなるでしょう。誰かが泣いていれば自分も悲しくなります。このように私たちには本能的に共感能力があるのです。
そこで善とミラーニューロンの関係について少し考えてみます。
私たちは誰かが困っていれば助けたくなります。それは何故かと言えば何か困っている人、物を見たらミラーニューロンの働きで自分たちにも困った感情が発生するのです。つまり相手が困っていたら自分たちにも困っている不快な感情が生まれるのです。その自分たちの不快な感情を消すためには困っている相手を助けなければならないのです。要するに「公(みんな)の為」と言っても自分の不快な感情を消すために善なる行為を行っているともいえるのです。
そしてうまく助けることが出来れば、不快な感情が消えて自分の心に安心感が広がり、それに関係しているみんなも同じようにほっとするのです。そのみんながほっとする、安心する感情こそが「善い、正しい」の感情ではないでしょうか。
このように絶対善とは何か困った選択すべき問題が起きれば、自分(私)のことより全体の利益である「公(みんな)の為」とまず考えて、みんなが元の「安心・幸せな状態」に戻れるためにはどうすればいいのかと考えることなのです。
自分のことを忘れて、まず公の為にと考えるのは何か理不尽なように感じるかもしれませんが、ほかの人たちもあなたのことも含めて「みんなの為」と考えてくれているのですから心配しなくていいのです。言うならば「一人はみんなの為に、みんなは一人の為に」なのです。
善とは本能から来る感情なのです。
ですから理屈ではなかなか分からないことなのです。
何故「私より公を優先すること」が絶対善として本能となったのでしょうか? それはやはり種族保存の為でしょう。
生物たちは種族保存するために長い間試行錯誤をして最も種族保存できる方法、行為が「私より公を優先すること、つまり愛や思いやりである」ことを見つけたのです。そしてそれこそが最も種族を保存できるとして遺伝子に書き込まれ本能となったのです。その本能が同じ生物である私たち人間にも受け継がれているのです。
何故「私より公を優先すること」が絶対善として本能となったのでしょうか?
それはやはり種族保存の為でしょう。
生物たちは種族保存するために長い間試行錯誤をして最も種族保存できる方法、行為が「私より公を優先すること、つまり愛や思いやりである」ことを見つけたのです。そしてそれこそが最も種族を保存できるとして遺伝子に書き込まれ本能となったのです。その本能が同じ生物である私たち人間にも受け継がれているのです。
そして善である「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」は自然界において「絶対的に正しい事である」と、もうすでに決まっていることなのです。
そしてそれは生物が存在する限りにおいて今後も、未来永劫変わることのない最高の方法、行為なのです。ですから本能的善に関して人間の理性の出る幕などないのです。西洋の哲学者たちが善を理性で論理的に考えようとしても無駄なことなのです。
その本能的善があって初めて私たちは理性によって何が正しいのか、法やルールなどを考えることが出来るのです。
人間社会はより複雑ですから理性で善悪を決めなければならないこともあるのです。しかしその基にあるのは本能的善である「種族保存、みんなの為」なのです。
全ては種族(仲間の群れ、民族)保存、社会の安寧秩序、みんなの安心・幸せの為、つまり公(みんな、仲間の群れ)の為にあるのです。みんなの安心・幸せの為に私たちに関するすべてのものは存在するのです。
その為に私たちに必要な物事全ては作られてきたのです。
勿論、絶対的に正しい行為「私より公を優先すること」もまた「種族保存」の為に自然界で創られたのです。私たちに関する全てのものは「種族(仲間の群れ)保存、公(みんな)の為」と言う最高の目的の為にあるのです。全ては種族保存の為にある、と言えるのです。
最後に絶対善をもっと詳しく言えば、何か困った問題が起きた時に、唯一無二の正しい事である「みんなの安心・幸せの為」に合致するような答えを得るためには、皆さん一人一人が少し私欲を抑えて、一人一人がその問題のリーダーの立場に立ち、強い責任感をもって考え、そして時には妥協して「これが一番みんなの為になるであろうと思える結論」をみんなで導くことなのです。
確かに、これは理想論ですが、最高の事を示しているのですから理想にならざる得ないのです。
絶対善は全体的な利益である「みんなの安心・幸せの為」であり、それに合致するような結論を得るために、みんなが少し私欲を抑えてみんなで論理的に考えて結論を出すことなのです。
そしてまた相対主義的な民主主義ではお互いに「自分が正しい!」と主張をし、対立するだけなのです。ですから私は「現在の善的相対主義(善、正しいは人それぞれ)の時代から私の言う善的絶対主義(善、正しいは絶対的である)の時代に移らなければ世界に平和が訪れることはない!」と大きな主張もしているのです。つまり現代のいい加減な民主主義から本当の民主主義にならなければ進歩はないと言っているのです。
また何を好むのか?何を幸せと思うのか?などの価値観は「人それぞれ」で構いませんが、善、正しいに関しての価値観だけは「人それぞれ」であってはならないのです。つまり他のイデアは見つけられなくてもいいのですが、善のイデアだけははっきりと定義しなければならないのです。
以上の説明で絶対善を理解できた人は、何か困った問題が起きた時、最も正しい議論のやり方は「みんなの安心・幸せの為、公の為」に合致するような答え、結論を出すためにみんなで同じ方向を向いて議論すればいいのです。そうすれば答えは「人それぞれ」ではなくなり、やがて一つに収斂することでしょう。今までのようにお互いに相手の意見のあらを探したり、潰しあう議論など間違ったやり方だったのです。絶対善が分かった今、正反合などの議論はもう古いやり方なのです。
また誰かの意見や考えを聞いた時、それが「みんなの安心・幸せの為、みんなの為」に合致していないと思えば「それは正しくないよ」と自信を持って言えるのです。だって私たちは絶対善が分かっていますので、絶対的な自信があるのです。
賢くない人たちがどんなに絶対善で考えてもまともな結論は出てきません。やはり本当に「みんなの為」になる答えを得るためには本当の賢さ、大人の知恵が必要なのです。ゆえに皆さん、常に賢くあるように努めましょう。また問題は一人だけで考えるのではなく、なるべく多くのみんなで相談して、みんなで論理的に考えることが大切なのです。中には飛びぬけて優れた意見を持った人がいるかもしれないからです。
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すごく良い事仰るな~と思います。
何度も何度も読み返したくなります(*∂∀6)
みなさんも、何度も読み返してみてね☆彡
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